霊性と悟り、そしてしっぽ。

 

 今回は「心と体を変える “底力” は “腸” にある 腸脳力 」から
 

“直観と行為が一致していればいるほど自由な動きができる。”

直観を頭(脳)でキャッチしていたら、行為との間にどうしても時間差が生じてしまいます。それでは、流れるような動きはできないでしょう。動物と同様、まずしっぽ(尾骨)でキャッチし、それが身体の中心(重心)にあるハラに伝わる。・・・これが自然な行為の基本になります。脳が認識し、行為を把握するのはその後のことです。

 そう、アタマで考えてやっているようでは遅いのです。自然と身体が反応しなくては。この本の面白いところは、しっぽの名残である尾骨に伸びる一本の神経が、直観をキャッチするアンテナの役割を果たしていると考えていること。(個人的には、直観力を上げるためには頭頂のツボである百会から尾骨に呼吸を通すことが大事なのかなと思っています。)

 

 

脳が作り出す幻想から解放される

 この無明から抜け出すには、脳にばかり意識が偏った「頭でっかち」の状態に気づき、「意識の中心を肉体の中心に重ね合わせる」必要があるでしょう。それが座禅することの意味であり、この中心を重ね合わせる練習を繰り返す中で「直感の回路とつながる=悟る」という体験が得られることになります。


無明(むみょう)とは、仏教の世界で脳(アタマ)に意識が偏った状態のことを言うらしい。悩みや不安、怒りなどの実態のない感情は、脳が作り出すもの。過剰な自己意識、優越感や承認欲求なんかもそうなのかな。

脳が作り出す実体のない世界に、現代人が振り回されているのは事実。自分には悟りがどういうものかは分からないけど、脳に意識が偏った状態は、自分と、自分にとって本当に大切なものを見失ってしまう。 だから、脳が中心ではなくて、ハラが身体の中心であることを思い出して、意識を下ろしてどっしりと生きる。そうすることで、脳が作り出す幻が消え、自分を見失わずに生きていけるようになるのです。

 

人生は修行??

もちろん、「ハラ=下半身」には仙骨・尾骨だけでなく、感情の源と言っていい腸がどんと控え、しかも本能の母体である生殖器も隣接しています。つまり、ハラに意識を下すということは必然的にこうした強烈な「生」のエネルギーと対峙することも意味しているのでしょう。

釈迦やキリストの伝記に、「悪魔」と向き合い、ついには打ち勝ったというエピソードが残されているように、自己の感情や本能と向き合い、これを統合させることが修行者にとって「最大の試練」にもなりえるわけです。

 

 人生は修行?この本のなかに、霊性という言葉がでてきます。修行というのは、霊性を磨くというか、魂を磨くというか…。そういう、死んでもなくならないもの…とされているものを磨く??そのために「試練」があって、それと向き合う中で成長していく。…ということでしょうか。

そういえば、臨床心理学者の河合隼雄さんも「たましいが望むもの」という話をしていたように思います。河合さんは、人間が幸福と関るための二つの条件として、「自分の人生にきちんと向き合って生きること」、「自分を超える存在とつながっているという感覚があること」の二つが大事なのではと言っていました。

 

「品格=霊性を磨く」。身体がかわれば、見えてくるものがあると信じたいですね。

 

ちなみに、この本はスピリチュアル本ではなくて、腸のちから、身体の健康について書かれた本です。(玄米がいいとか、善玉菌とか、セロトニンは腸でつくられるとか、そんなことがメインで書いてあります。)

心と体を変える “底力” は “腸” にある 腸脳力

心と体を変える “底力” は “腸” にある 腸脳力

 

  

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