「しっぽ」で感じる合気道?

私は、ちょっと前まで合気道をやっていたのですが、合気道で大切な身体感覚で気づいたことを書いてみたいと思います。

 

この前記事に書いた「腸脳力」(心と体を変える “底力” は “腸” にある 腸脳力)という本の話。この本は、「はじめに」でも書いてあるように、「腸を元気にすれば、脳も元気になる」ということが書いてある本です。

 

この中で、一番印象に残っているのが、人間の進化の過程でなくなった「しっぽ」の話。しっぽの名残は、背骨の一番下の骨である「尾骨」として残っています。その尾骨に一本の神経が残っていて、そこが直観を感じ取るアンテナになっているのではという話でした。

 

この本を久々に読み返してみると、見えてくるものがあります。

 

直観を頭(脳)でキャッチしていたら、行為との間にどうしても時間差が生じてしまします。それでは、流れるような動きはできないでしょう。動物と同様まずしっぽ(尾骨)でキャッチし、それが体の中心(重心)にあるハラに伝わる。・・・・これが自然な行為の基本になります。脳が認識し、行為を把握するのはその後のことです。

 

東洋では、こうした霊の世界を「道」(タオ)と表現してきました。そして、華道や茶道、柔道、剣道、合気道など、芸事はすべて「道」を追求する手段、すなわち霊性を高めるための手段としてとらえられてきました。

 

よく合気道の先生が「感じる稽古をしてください」と言っていたのですが、その“アンテナ”となる場所が、この本で言うしっぽ(尾骨)だったのかなと思います。(全身の神経が尾骨につながることが重要。)すべての動作は、しっぽ(尾骨)から始まるというか、しっぽの神経から手足までつながるというか。しっぽの名残である尾骨から背骨、脳へと流れていくのが動作の理想なのだと思います。(これは身体が主であり、脳が従であるという現代の常識からの逆転があるから、だから理解が難しいのだと思うのです。)

 

生物としての人間の歴史なかで、進化した「脳」、退化した「しっぽ」。それによって、文明は発達したともいえるのですが、進化した脳がつくりだす不安や悩みなど、実体のない「敵」が現れました。人間はなくなってしまった「しっぽ」を忘れることができず、その感覚を無意識に探し求めているのではないでしょうか。

 

そもそも、五臓六腑はじめ脳が体を自由にコントロールできるところは少ないです。意識が届かないところ、つまり無意識の世界。(自我ではなく)自己は広い概念なんだろうと思います。

 

とある方の本に、「禅とは自己の探求ではないか」と書いてあったのですが、「禅」というものに通じる日本の茶道、華道、武道などが、今に至るまで支持を受け続いている理由の一つは、自己の探求という要素が含まれているからではないかと思います。

 

では、自己の探求とは何か?といわれれば、しっぽの感覚を取り戻すためにあるのではないかと、(だいぶ飛躍しすぎですが)思ったりもします。つまり、進化した脳が人間らしさをつくりだす一方で、不安や悩みといった実体のないものまでもつくりだしてしまします。実は脳はとても不安定なのだと。そして、脳の不安定さを加速させる情報の洪水。変化の時代、混乱の時代だから、変わらないものを求めるのは自然なことではないでしょうか。人間の生死を超えて変わらないもの。それが、東洋の「道」なのではないでしょうか。

 

しかし、それはアタマで考えても見つからない。思考ではなく、むしろ思考から解き放たれたときに見えてくるのではないでしょうか?だから、「しっぽ」の神経からはじまる身体感覚を研ぎ澄ますために日本の芸事は存在しているのではないかと思います。

 

しっぽからハラ、背骨、そして全身に伝わっていく。場の中心、動きの中心は、しっぽなのではないか?悩める30代が合気道をやって一番の発見、というか、現時点の解釈ですが…。もちろんこの考えは違うかもしれないけど、この大いなる疑問、これこそが自己の探求ではないか?な~んて思ったりします(^^)。