愛着障害 過去と向き合うこと

いま、失業中ということで、自分の過去を振り返ったりすることが多くなりました。子どものころのこととかを思い出したりして…。

 

次の仕事をどうしようかとも悩んでいるのですが、正直言って、自分のやりたいことって、何もないんですよね。やりたいことがないというか、やりたいことが分からないというか…。いつも、自分のやりたいことが分からない。そういう感じで、いままで漂流を続けてきました。つまり、目指すべき目標がなくて、ただ惰性で生きてきた。

 

自分は仕事を3~4年で変えてきたというところがあって、これはこれで色んな経験ができて良かった側面もあります。が、やっぱり漂流なんですよね。どこに向かって船を漕いでいるのか分からないのだから。

 

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仕事というのは、いろんな試練を与えてくれるもので、壁にぶつかったとき、いろいろと悩むことが多いので、そういう経験の積み重ねが成長につながると思っています。

仕事をやめたいま、自分に与えられている試練と言うのは、自分の気持ちに気づくこと。その過程で、自己を受容し、子供時代を取り戻すということではないかと思います。思春期以降の私は自分に自信がなく、自己否定、自己嫌悪が常に中心にありました。だから、20代社会に出て、いろいろと嫌な思いをしながら、自己否定、自己嫌悪の呪縛と闘ってきました。

自分は自己を抑圧して生きてきたところがあるので、いつのまにか自分の気持ちが分からなくなってしまったのではないかと思っています。(自分の気持ちが分からないから、心理学とか、性格分類が好きだったんでしょうね。)

 

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いま、こうして過去を振り返る日々を続けていると、やはり自己受容ができていないように感じます。それが、いまの私の課題です。

 

 

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)」より

 

私たちはよく「子どものころからやり直したい」とか「幼稚園からやり直してこい」と口にするが、そこには、深い真実が含まれている。

 

愛着の傷を修復するためには、安全基地を確保し、子どものころの不足を取り戻したり、周囲に受け入れられるといった共感的、体験的なプロセスとは別に、もう一つのプロセスが必要である。それは言葉を介した、認知的なプロセスである。これらが並行して進むことによって、修復までのプロセスはより盤石なものになる。

子どものころに傷ついた体験は、たいていの心の隅に押しやられ、はっきり言語化されないまま、もやもやとした記憶として心に巣食っている。そうした言語化の不十分な情動的記憶というものが、その人の心や行動を無意識のうちに支配しネガティブな反応や感情の暴走、解離といったことを引き起こす原因になる。そのため、まず、そうした記憶を再び活性化することが必要である。

 

「自分が自分の親になる」という考えは、愛着の苦しみを知らない人には、突飛なものに思えるだろう。しかし、親に認められないことで苦しんできた人、安全基地を持たない人には、心に訴えるものがあるはずだ。

 

 この本は、何回も読んだ本なのですが、自分の過去を振り返るとき、この本を読まずにはいられません。

 

「自分が自分の親になる」ということ。心の中にいる親に甘え、また相談し、そして、愛着を形成して自己評価の基準を作る。自分が失くしたものを自分の心でつくりだせるのなら、そんなに素晴らしいことはありません。

 

自分の過去と向き合うことで見えてくるものが、きっとあると思います。あと、もう一歩。